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当会員の製品を販売しています「秋芳堂」では、山口県内でオリジナル商品を作られてる作家さんを募集しています、詳しくはこちらを参照してください。

秋吉台の聖人・大理石の恩人 本間俊平氏

はじめに

本間氏は眼光の鋭い偉丈夫で雄弁家と言うより熱弁家であった、信念ある人間愛に溢れ、即行動に移す無鉄砲さと思慮深さを兼ね備え、達筆達文、著書も多く、一度彼に合うと忘れることができない不思議な魅力があった。明治から大正、昭和と、秋吉で大理石産業の聡明期を築き、多くの人に愛を与え、とくに恵まれぬ人の為に生きた彼の人生は、現代にまで光を放ち感動を呼び続ける。

 美祢大理石生産者組合は地元の大理石文化振興のため、過去の大理石関連の出来事や資料、写真の掘り起こしを進めています。中でも、本間俊平氏は「秋吉の聖人」「大理石の恩人」と呼ばれた人で、山口県の大理石を検証していく上で忘れることはできない人物です。氏の通った道はまさに秋吉の大理石の礎となっていて、我々山口大理石オニックス組合員は、微力ではありますが本間氏の後輩として大理石業の一翼を担っていることに、誇りと責任を感じております。彼の偉業をより多くの人に知って頂き、ここに簡単ですが氏の足跡をまとめました。

本間俊平氏伝

本間家

幼少期~少年期
明治六年に新潟県の海辺の寒村、間瀬村に生まれる、六才にしてその英才をうたわれ、十才のとき小学校在学のまま月給五十銭で授業助手として働く。家計を助けるため、十三才にして福島県で木工の徒弟に入り、全国を職工として移動する、正業のかたわら人力車を引き、冬、左足小指を凍傷のため失う。

間瀬村全景

明治二十二年、二年続きの凶作で無職無銭の大衆が巷に増え、各地で暴動が起きる、この時、本間は弱者、囚人、乞食また職工の悲惨な状況や境遇の悪さに心を傷めた。神の存在に疑念を抱いていた本間は十八才のとき、数人の門弟を従えキリスト教の講演会を妨害したが、満場の殺気にもひるまず、壇上で教義を説く説教者の態度を見て、不思議な感銘に打たれ、その夜、夜店で聖書を購入する。
                         

青年期

明治二十七年、二十一才。日清戦争が始まる。就任していた北海道庁で収賄の疑いをかけられ退職、経済的苦境に立たされる、夏、札幌から東京まで無銭徒歩の旅を決行、東京で官舎建築に職を得、軍の命令で極秘裏に韓国に渡る。十一月、本間氏との連絡が途絶え、札幌で生活に貧窮した両親は函館の知人をたよって無銭徒歩にて移動中、寒村の漁具小屋の軒下で縊死(父六十一才 母五十五才)。本間氏は翌年帰国後、この事実を知り深く嘆く。明治三十年、二十四才、東京霊南坂教会にて洗礼を受ける。熱烈で独特な信仰と実践的な伝道活動で、自ら不遇の人達の中に入って感動と希望を与える。東宮御所御造営局に奉職、おもに建築資材調達に従事する。

秋吉時代(はじめ)

秋吉のトタン屋根の書斎

明治三十五年、二十九才、東宮御所(今の迎賓館)建設にあたりその内装に使う大理石の調査に、本間氏は秋吉の地に赴任を命ぜられる。当時すでに小規模ながら大理石業を営むものが有り、彼等と共に大理石の鉱脈を調査した、一度は建築材としては適さないと判断したが、一ヶ月後、彼が東京に帰ろうとすると、回りの者が彼を慕い、山の所有者の小川資源氏も本間氏を見込んでひきつづき山を任せたいと申し込んだ。
彼はこのとき自分に課せられた強い使命を感じ、官庁をやめ長門大理石採掘所を開き本格的に採掘と加工に取り組んだ。このとき、本間氏は二十九才、妻ツキ二十三才、武子、千代、潔の三女といっしょだった。工場部分は瓦屋根の比較的しっかりした建物だったが住居部は茅葺きやトタン、古材などで造られ粗末なあばら家にひとしいものであった。
彼はこの地で出獄人や不良者、世間から見放された若者達を雇い、彼らを一人前の人として自立できるように苦楽を共にする。しかし当時の村社会や、既存宗教の人達に本間氏のキリスト教的な行動は理解されず、いやがらせや妨害に合う。あるとき苦労の末採掘した大理石を無意味に破壊され、彼は失意のうちに神へ祈りを捧げた。その時、微かな地震が起こり目の前で土地が陥没し大理石の鉱脈が現われた。

長門大理石採掘所平面図 S6年頃の夫妻と長女武子の孫 長門大理石採掘所

秋吉時代(初期)

昭和40年頃の大理石丁場風景
大理石の採掘風景

長門大理石採掘所一周年感謝会史に、『我に一金なし、我にあるもの唯六人の田舎職工と、盲一人、唖一人、新平民として人に唾されつつありたるもの十六人、余と合わせて二十五人。始めの半年は殆ど眠る能わず、寒風寝室を襲ひ、飢餓一族に及び、加ふるに病魔襲来、一人として健康なるものなく、一碗の麦飯も時としては食たりし事あり。かかる間にも天長の佳節を以て我職工夜学会は呱々の声を揚げ、以来幾多の迫害は雲の如く圍い来り、時に暴雨我らを麦の如くに篩ひし事あり、幾多の障伎礙相繼で到りしも斯事業は駸々乎として進歩し、今や職工夜学会は十有二人の生徒を有し、工場又他二十二人の常備職工を有し、百般の準備漸く整ひ、今や我工場内に讃美の声高し、あゝ讃むべきは主の御光栄なり。』とあり当初のきびしい状況がうかがえる。                   

秋吉時代(中期)

S2年頃の秋吉の礼拝所

やがて近代化を進める日本で電気の配電盤に大理石が使われるようになると、これを美祢地域の大理石がほぼ独占した、三菱、住友からも注文が入り、十年後には東京に出張所を開設し、秋吉には第二工場が操業を始めた。その間、商品は無検査でないと提供しない、そのかわり値段は先方に任せるといった「本間の商法」を通し抜く、事業的には二度の破産を経験するが、不屈の精神と信仰で再建する。
仕事のない日曜は聖日として午前中は礼拝、午後は休んだ。この礼拝には遠くから大勢の人が集まった。三十二キロ離れた山口市からも朝五時に出発した学生らが歩いて来た、これは雨の日も雪の日も休むことなく寮生の誇りとして永く受け継がれた。本間氏は言う、「大理石の加工は人間教育の魂を磨く行程と一致する、土を取り、穴を開け、火薬で割り、角を取り、工場に運び、鋸で切り分け、形を整え、幾度も磨き、艶を出す。」長門大理石採掘所は求道の道場、魂の修練所となっていった。

秋吉時代(後期)

昭和に入り、しだいに経営を次男の五郎にまかし、本間氏は執筆や講演活動を積極的に続けた、講演地は地元はもちろん日本全土に及び彼の話しは聞く人の心の奥深くにとどいた。その感動は混迷の社会に生きる勇気を与えた。
大正十一年の小菅監獄での講演で囚人千三百人を前に演壇に立ったとき、彼は長い間沈黙し、小声で「私は恥ずかしい。今まで皆様のために祈ったことがなかった、どうか許して下さい。これからは私は祈る、諸君も共にここを立派な天国とされたい。私はいつでも諸君のおいでを待つ、本間は秋吉の岩影で祈っています」五分ほどの話しのあと会場内に大きな感動があふれた。翌年の大震災のとき、誰一人脱走するものはなかった。

晩年

本間氏はまた手紙魔であった、総数は年間数千通、電話で話すように矢継ぎ早に送り付けた。また中央の財界、文化人との交友も広く、森鴎外は本間氏の生き方に感動し「鎚一下」と題する小論を残している。本間氏自身の著書や本間氏に関する伝記、書籍も数多く当時を知る上で貴重な資料となっている。その他、本間氏には不思議な直感力や啓示が随所にみられる、それがキリスト教に由来するのか本間氏自身によるものかは判らないが、聖人に相応しい伝説となって本間氏の個性を際立たせている。


終焉

昭和二十三年神奈川県の津田山の仮寓にて妻次子死去、二ヶ月後、生まれ故郷の間瀬村に帰った本間氏は、妻を追う様に七十五才で永眠した。故郷間瀬の生家前には地元有志により、生誕記念碑が建てられ、遺骨は新潟の菩堤寺に厚く葬られたが、後に秋吉の鯨ヶ原に移された。しかしながら現在その所在は確認できていない。
秋吉における彼の功績は大理石の採掘や加工を地元の主要な産業にまで育て上げたにとどまらない、一人の人間として、その崇高な魂をもって恵まれない人達をこよなく愛した彼の行いは高く評価されなければいけない。

お礼

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

小原国芳著「秋吉台の聖者、本間先生」に、当時の様子がよくわかる写真が記載されています。貴重な資料なので、別ページにて記載させて頂きました。関係者の方にご迷惑になる場合は掲載を中止します。

小原国芳著「秋吉台の聖者、本間先生」についてはこちら。

 参考文献、 写真、

「本間俊平伝」            美吉明氏著     昭和三十七年 
「長門大理石採掘所就業十周年及び
 第四十回誕辰記念感謝会史」     本間俊平著     大正十一年
「大理石、テラゾー五十年の歩み」   全国石材工業会刊  昭和三十九年
「秋吉台の聖者、本間先生」      小原国芳著     昭和三十七年
「神の人本間俊平先生」        四方文吉著     大正十一年
「信仰の人 本間先生」        梅光女学院刊    大正十二年
「一石工の信仰」           本間俊平著     大正十一年

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