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当会員の製品を販売しています「秋芳堂」では、山口県内でオリジナル商品を作られてる作家さんを募集しています、詳しくはこちらを参照してください。

山口県美祢市の大理石産業の歴史

山口県美祢市の大理石は、明治35年、東宮御所(迎賓館)建設のための大理石調査のために来山した、本間俊平氏によって、本格的な採掘が始められました。しかしそれ以前から、美祢地域では、墓石、鳥居、石仏、灯籠、狛犬、石臼、石垣などが作られていて、人々の生活と深くかかわって来ました。今でも白い大理石で作った石造物をいたる所で見つけることができます。

古代から

日本ではほとんど歴史に登場しないまま、日本の大理石は近代まであまり利用されずに来ました。しかし大理石は御影石より加工しやすく、砂岩や安山岩より風化に強い、しかもここ山口県の秋吉カルスト地域には少なく見積っても二億八千万立方米の埋蔵量あるという調査もあり、この地域ではごくふつうに利用されてきました。
美祢郡市の大理石の歴史は古く、美祢インターチェンジの工事中に発見された内川古墳の妻石に大理石が利用されています。白く美しく、地元で手軽に手に入る大理石が使われたのは当然でしょう。
江戸後期頃までに作られた石の造型物はほとんど白大理石で出来ています。神社、仏閣や民家なども調べるとやはり白い大理石で作られた造形物(墓石、鳥居、石仏、灯籠、狛犬、石臼、石垣など)を容易に見つけることができます、それらがどこで採られたのかはっきりわかりませんが、大きく分けて次の2つの地域の石質に非常に似ています、一つは美祢市の伊佐小学校の近くで採掘されていた比較的結晶の小さな伊佐白と言う大理石、その裏手の小高い峰は「白岩山」と呼ばれていて、多分このあたりに 当時の大理石の丁場があったのではないかと想像できます。もう一つは秋芳町の八幡宮裏山「経塚山」から採れた象牙と呼ばれた結晶が密で磨くと非常に美しい大理石に似ています。
余談ですが、古くからの歴史がありながら、今まであまり知られてないのは訳があります。制作当時は透き通るような美しい白色だったかも知れませんが、二百年も経つと苔やかびがはえ結晶の間に入り込み、注意して見てもすぐには大理石と判りません、調査をしている私達でさえ判断できかねるものが多くあり、幾度か心の中でご免なさいと言いながら石仏を少し傾けて底を見たこともあり、底の部分は雨に濡れないから苔が生えないのですぐわかります、幸い罰はまだ当たっていませんが、それぐらいしないと判らないものもあるのです。

美祢市、菅原宮 秋芳町、金麗社 美祢市、南原寺

明治期の船出

秋吉の大理石が歴史に記録として登場するのは明治八、九年の頃、当時の候爵井上馨、子爵山尾庸三らの働きかけで採掘、彫刻などの事業化が試みられました、笠井順八氏は『山口県勧業事務沿革』によると、「秋吉台上大理石、明治十二年開抗、二千五百坪」「寒水石、明治十二年開抗、二百九十坪」とあり、明治十四年の第二回内国勧業博覧会へは寒水石、大理石、石灰、化石などで作った工芸品を出品し初期の大理石産業の事業化を試みています。
候爵井上馨は明治二十四年、麻布の鳥居坂に新邸を建てたとき応接間に山口の大理石を使った暖炉を作りました、それは透き通る様な美しさで非常に良質だったため、士族のあいだで好評を博したようです。
明治二十九年の秋、元鉄道技師であった小川資源氏は長門鉄道路線調査のため秋吉村を通過したおり、路傍の一小店に、白色大理石の小作品を陳列販売しているのを見つけました、製品は文鎮、印材等でしたが、その石質はイタリアの大理石に遜色ないことを記録しています。彼は後に小規模の工場を秋吉で創業しています。この頃になってようやく秋吉の大理石は中央に知られるようになり、少数ですが、西洋建築用に注文が入って来るようになりました。小川資源氏は明治三十四年、さらに鉱山を買収し、諸機械を設置しそれらの需要に応じようとしましたが、石にキズや割れ目が多く、また大規模な加工には知識や経験も不足していたため、苦渋のうちにその多くが途中で挫折してしまいました。

美祢駅構内 (S30年頃)

美祢市の丁場 (S30年頃)

木製ガングソー (S40年頃)

当時の採掘加工はほとんど全て人力に頼っていましたが、明治二十四年にアメリカ人のキルデール氏が来日し横浜に蒸気機関で動く石の切断機械を備えた工場を建て、輸出用の板石の制作に取りかかりましたが、利益が上がらず閉鎖、この時伝えた技術は後の日本の石材産業に多大な恩恵をもたらしました。


秋吉の聖人、本間俊平氏

秋吉において本格的な大理石採掘と加工をしたのは本間俊平という一人の卓越したキリスト教徒でした、大工として頭角を顕していた彼は、明治三十五年、東宮御所御造営局の命により、秋吉の大理石が東宮御所(迎賓館)建設の用材になるのか調査するため為、秋吉に赴任を命ぜられました。彼はこの地で長門大理石採掘所を開設し、恵まれぬ人や出獄人と労を共にし、深い人間愛とキリスト教的使命感で、粗衣粗食のなか多くの人が無理と言った秋吉の大理石事業を軌道に乗せました。今のような工作機械も重機もない時代、全ては手仕事でなされなければなりませんでした。本間氏は固い大理石の切り出しを、人間教育になぞらえ次のように言っています、「大理石の加工は人間教育の魂を磨く行程と一致する、土を取り、穴を開け、火薬で割り、角を取り、工場に運び、鋸で切り分け、形を整え、幾度も磨き、艶を出す。」長門大理石採掘所は求道の道場、魂の修練所となっていきました。本間氏は混迷する当時の日本各地で精力的に講演や激励を続け、いく先々で深い感銘と感動の渦を起こしました。その活動は日本中に知られるようになり、秋吉の聖人と呼ばれようになりました。


昭和初期の躍進

昭和30年代の初め頃までは石を中央に供給していた時期で、この頃は西洋建築ブームにのりかなりの需要があり、国会議事堂や銀座三越など当時の最高建築の多くに山口の大理石が使われました。
中でも国会議事堂は全ての建築材を国産の物に限定したため、国内の石材調査が大規模に行われた、大正九年に始まった工事は昭和十一年、十九年の歳月をかけようやく完成しました。使用された大理石は全部で三十七種、そのうち秋吉地域の大理石は9種類になりました。
この頃ようやく戦後復興を終え、生活に落ち着きを見せ始めた庶民の間に観光ブームが起りました。地元では秋芳洞観光が脚光を浴びはじめ、ここのお土産として大理石工芸品をつくりはじめました。そしてこれが結構な人気と評価を得、好調な販売を続けたのが、ここの大理石加工産業の増加に拍車をかけました。当時は農閑期や暇な時間を利用した農家や家内制事業所が多く、専門知識も機械もない状態での手探りの操業から、独自の経験と技術開発をすすめ、地域独特の製品を開発していきました。その努力のかいあって大理石工芸は一躍地域の重要な産業に成長しました。

銀座駅に使用された
聖火(seika)
国会議事堂(9種類の
美祢産大理石が使われた。)
国会議事堂内両院玄関床
(薄雲、黒霞)

時代の変革期

日本が高度経済成長期を迎えた昭和40年代、地域の代表的産業に発展した大理石業社は、美祢市、秋芳町、美東町に100社以上でき、高度な機械化や大規模化を図る業者もでて、繁栄と栄華の時期を築きあげました。しかし一時は作れば売れた商品も昭和50年代の終わり頃から、安い外国産の大理石が輸入されるようになり、山口の大理石産業は徐々に苦戦を強いられるようになりました。また秋吉台が国立公園に指定され、地域内の数種類の色大理石の採掘が難しくなりました。100社余りに増えた業者も徐々に数を減らし始め、特に地味な地元の大理石にくらべ、美しい模様と透き通ったような石質のパキスタンのオニックス製品が輸入されるようになると、地元業者は大きな打撃を受けました。生き残りをかけ、秋吉洞の土産品から現代的な高級工芸品やインテリア、建築用材などの製品開発や、売り先も関東や関西へと移し、時代に合わせて変化を試みました。しかしこの消費構造の変化の中で、しだいに時代に翻弄され取り残されていく業者が増えていきました。

美祢の鍾乳石製の工芸品 秋芳洞 最盛期の大理石onix祭り


現在の課題

昭和の終わり頃、一時的にバブル景気の中で、大理石製品は飛ぶように売れましたが、突然のバブル崩壊、状況は一転しました。地元の大理石工芸・インテリア製品は売れなくなり、代わりに安価な輸入品のみがかろうじて,秋芳洞の観光土産として買われているのが現状です。平成になり、ますます時代は厳しさを増してきています。新しい世界に向け、新たな挑戦は、大理石を歴史、文化、産業(観光)の各分野でとらえ直し、組み直すところから、根本的に今の大理石産業形態を変えていかなければいけないのかもしれません。

 

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